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株式会社 日立アカデミー

写像? 虚像?

- 我々は、「歪んだ写像」で事実を認識できているのか -

2019年10月30日'ひと'とITのコラム

昨今の情報社会の中では私たち自身が経験したり見聞きしなくても、さまざまな手段により現実に起きていることに触れることができます。
永倉は、これは『"写像空間"があるからこそ』だといいます。また、こうもいいます。『「正確な写像」は存在しないことを前提に「虚像=歪んだ写像」に向き合う、すなわち「歪みがあること」を常に意識することが大切なんだと思います。』
写像と虚像。さて、みなさまはどのように考えますか?
(コラム担当記)

 また、間が空いてしまいました。何回か書き始めたのですが、筆が進みませんでした。いや、「キーボードが進まない!?
 ・・・味気ないですね、「指が走らない!?」・・・時代とともに言い回しも変わるものです。

 台風19号が各地に大きな被害をもたらしました。連日被災状況を報せるニュースが流れました。昔と違って多くの人がさまざまな情報に早く・詳しく接することが出来る時代です。我々は社会をこういった報道等を通じて、正しく・詳しく知ることが出来ます。
 そして取材力の向上やSNSなどを通じた現場発信情報の飛躍的な増加で、社会の隅々まで知ることも出来るようになりました。多種・多様・大量の情報で構成された"写像空間"があるからこそです。しかし、本当に大丈夫なのでしょうか? 今回気付いたことがあります。台風19号が被害をもたらす前、ニュースで良く目にしたのが香港での混乱です。連日報道されていたので、現地の動きが間近にいるかのごとくさまざまな情報で変化を知ることが出来ました。しかし、台風19号上陸以降香港のニュースが消えました。
 連日見えていたものが見えなくなったのです。日本で暮らす人間としては、台風19号のニュースの方が関心度は高いので、香港のことは正直気にかけなくなっていました。乱暴な言い方をすれば、香港の混乱は「なかったこと」もしくは「終わったこと」となっているのです。しかし、現実の空間では混乱は続いているわけです。私の中で、社会の見方にほころびが生じたのです。そもそも報道やネット上の情報は、さまざまなフィルターを通して提供されています。報道では、どのニュースを取り上げるのか、順番をどうするか、報道時間はどれくらいなのか、有識者のコメントを入れるのか、等々放送時間や紙面の限りがある以上、良くも悪くも恣意的にならざるを得ません。一般の人が発信する情報も、インスタ映えや"いいね"ねらいという恣意的な要素が当然入り込みます。
 しかし情報氾濫社会で暮らすと、我々は膨大な情報の一部だけに触れていて、見切れない情報がまだまだあり、見切れない情報にない社会は存在しないという錯覚に陥っているように感じます。"写像"ではなく"虚像"の中で生きているということですね。前にも書いたかもしれませんが、明治維新後ヨーロッパから"科学"を導入したときに、哲学を導入しなかったことが日本人とヨーロッパ人の"科学"に対する見方を、ある意味正反対にしてしまったことに似ています。ヨーロッパの人達は、「科学的に説明できることは自然の一部」に対し、日本人は「科学的に説明できることが全て」、だから日本人よりもヨーロッパ人の方が「超現象」と呼ばれる科学的に説明できないことを受け入れやすいといわれています。日本人は科学的に説明できないことは信じない傾向ということですね。今の社会の見方と同質なものを感じます。

 最近読んだ本で「FACTFULNESS(ファクトフルネス)」(ハンス・ロスリング他著、日経BP社発行 ISBN978-4-8222-8960-7)が面白かったのですが、まさしく今まで書いたことに関する本です。結構巷で話題となっている本です。この本では冒頭に質問がいくつか並んでいます。著者がいろいろな講演会などでこれらの質問を出すのです。例えば『世界中の1歳児の中で、なんらかの病気に対して予防接種を受けている子供はどのくらいいるでしょうか?』、回答は3択で『A 20% B 50% C 80% 』、現代のグローバル社会の状況を問うものが並んでいます。講演に参加している人は医者や施政者、科学者など高度な知見を持っている人がほとんどなのですが、毎回10%以下の正答率だったそうです。この夏から私もある研修でこの質問を使っています。8問程出すのですが、今まで約250人でやはり10%以下の正答率です。特に先ほどの例で採り上げた質問は、今のところ正答者は1人です。著者曰く『3択なのですからチンパンジーでも33.3%の正解は出せます』と。確かにそうですね(250頭(敢えて"匹"ではなく)のチンパンジーならば83頭正解が出せるということです)。なぜこうなってしまうのか?先ほど書いた「フィルター」もしくは「バイアス」の影響が大きいということに帰結します。チンパンジーより多く情報に触れる機会が多い人ほど正答率が低いことからも、情報過多の時代の特徴が浮かび上がってきます。

 2008年~2017年で65歳以上の「交通事故死亡者数」は20%程減っています。
 数年前にある自動車メーカの車が走行中に発火する事故が注目を浴び、「今日もこのメーカ製の自動車の発火事故が起きました」と報道が続き、多くの人がこのメーカの自動車は良く発火する、という印象を持ってしまったのですが、実際は同時期も他のメーカの自動車の発火事故は、起きていましたし、このメーカの発火事故がこの時期に増加したわけでもありませんでした。
 例を挙げれば、枚挙に遑が無いといえます。
 私が子どもの頃は、報道される範囲や密度、頻度も少なかったですし、インターネットのような情報取得手段もありませんでした。従って、感覚的に実際の世界で起きていることは「知らない」がデフォルトです。知らないことが前提です。そうなると限られた「知ったこと」は「正しく」知ることが出来ていたのかもしれません。特に知るためには努力が必要でしたから、情報の吟味を汗かきながら行っていました。情報を見る目が養われていたといえるでしょう。要するに、人間は楽して情報を手に入れられると鵜呑みにしてしまう怠惰な動物なんだということを、特に今の時代は認識することが大切なのでしょう。

 本コラムの『第13回 "事実"の切り口 - ITはきちんと"事実"を表せるか・・・ -』では、写真がフィルムを現像して写し出された"事実"が、ネガをデジタイジングすると違った"事実"となる例で、デジタル化に潜む怖さについて書きました。
 今回、これまで書いてきたことは、この先IoT時代が深まるとデジタル化に潜む落とし穴だけではなく、人が"事実を理解する"ことそのものに落とし穴があることを示唆しています。IoT時代と言われる所以は「データ駆動型社会」すなわち「リアル(現実)社会の"写像空間"がサイバー(IT)で構築され、そこでリアル社会だけでは創造出来ない価値を創出して継続的な豊かさを実現する時代」ということです。ここで重要なのは緻密で正確な写像空間の実現です。実社会を誤ったり偏ったりして"写像"してしまえば、それは"写像"ではなく"虚像"となってしまいます。サイバー空間で創出される価値も怪しいこととなります。しかし、「正確な写像」かどうかは確かめようがないのも現実です。ではどうすればいいのか? 「正確な写像」は存在しないことを前提に「虚像=歪んだ写像」に向き合う、すなわち「歪みがあること」を常に意識することが大切なんだと思います。この「歪み」そのものの絶対量は把握出来ません。デジタル化が進むことにより、かえって曖昧さを大切にする、これからの社会をうまく渡り歩くコツなのかも知れません。

 よく人の性格を表すのに「水が半分はいったコップ」の話が使われます。ポジティブな人は「まだ水が半分ある」と言うし、ネガティブな人は「もう半分しかない」と言うアレです。「コップ半分の水」という情報をポジティブな人が伝えた場合とネガティブな人が伝えた場合では、水の量は同じに伝わりますが、その付帯情報は異なります。歪みが生じます。さらに、ポジティブな人が「もう半分しかない」と伝えた場合、ネガティブな人が「もう半分しかない」と伝えた場合、ポジティブな人が「まだ半分ある」と伝えた場合、ネガティブな人が「まだ半分ある」と伝えた場合で情報の捉え方が4通り存在するという曖昧さが生じます。曖昧さを正しく解釈するには、伝えた人がどのようなポジティブさ、もしくはネガティブさなのかを日頃の「付き合い」の場面などから考慮して情報を解釈することが求められるわけです。この辺が曖昧さを理解できる「脳のコンピュータ」が、AI時代になっても必要とされる所以なのかもしれません。

 「曖昧さ」という言葉から横道に逸れてみます。
第34回のコラム『デジタル・トランスフォーメーションって何もの? ― 言葉から気づく・言葉から学ぶ ―』などで何回かこのコラムでも触れていましたが、カタカナ用語が言葉の意味もバラバラな状態で氾濫しています。このことは、カタカナ用語だけではありませんでした。我々は言葉の意味を"正しく"理解・認識するために、辞書を拠り所とします。言葉の意味を辞書で調べると安心します。そりゃそうですよね、辞書で調べたのですから・・・。し・か・し、安心できません。「育成」という言葉、ある辞書で調べると『りっぱに育て上げること』と出ています。ところが別の辞書には『やしないそだてること。立派に育て上げること。』と書かれています。「やしないそだてること」の有無の違いがあります。辞書によって(当然なのですが)編者が異なるわけですから違っていて当然なのです。更に例を挙げると「右」を調べてみると、『南を向いた時、西にあたる方。』という辞書があれば、『アナログ時計の文字盤に向かった時に、一時から五時までの表示のある側。』という辞書。さらに『この辞書の偶数ページの側』、『多くの人がはしや金づちやペンなどを持つ方』とあります。最後の拠り所と思っても、そこには「曖昧さ」があることを忘れてはならないと思います。

 最後にもう一つ本の紹介を。
 「オリジン」(上・中・下)(ダン・ブラウン著 角川文庫) 「ダ・ヴィンチ・コード」「インフェルノ」などの話題作を書いた人の本です。宗教とIT(AI)を絡めたフィクションですが、いろいろ考えさせてくれる問題提起満載です。この先ITの進化は、決してITという技術の進化の延長線上では見ることは出来ません。我々人類が意思を持ってビジョンを持たなければなりません。想像力が求められますが、その想像を掻き立てるヒントとなると感じました。生活やビジネスではなく宗教に根ざす人間の本質との組合せは斬新です。
 ぜひ、思考の拡張のお供にどうぞ。
 (途中の予防接種の問い、正解は80%です)

執筆者プロフィール

永倉 正洋

技術士(電気・電子部門)
株式会社 日立アカデミー
主幹コーディネータ
一般社団法人 人材育成と教育サービス協議会(JAMOTE)理事

日立製作所でシステムエンジニアリングの経験を経て、2009年に日立インフォメーションアカデミー(現:日立アカデミー)に移る。企画本部長兼研究開発センタ長としてIT人財育成に関する業務に従事。2011年以降、主幹コーディネータとしてIT人財に求められる意識・スキル・コンピテンシーの変化を踏まえた「人財育成のための立体的施策」立案と、 組織・事業ビジョンの浸透、意識や意欲の醸成などの講演・研修の開発・実施を担当している。

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