-「一言えば十伝わる」は、すでに幻想 -
2026年6月12日‘ひと’とITのコラム

梅雨入り前の台風、四季から二季・・・順番を守れなくなってしまった地球・・・「秩序ある自然」から「無秩序な自然」への変化は、人に「自然をコントロール出来ているような錯覚にそろそろ気付きなさい!」と警鐘を鳴らしているのだと、実感する今日この頃です・・・
さて、ここ数年運転していて大きな変化を感じるのが、高速道路の進入路などでの「合流の仕方」です。どのように変化してきたのか?
〔かなり昔〕
渋滞時、本線走行中の車が前の車との間隔を出来る限り詰めて、「自分優先モード」剥き出しで合流側から来る車に(絶対)ゆずらない!
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〔少し前〕
渋滞時、1台1台交互に合流する「ゆずり合いのマインド」が定着。
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〔最近〕
渋滞していないときにも、本線を走行してくる車(優先側)がいるにも関わらず、合流側の車が減速せずに突っ込んでくることが多い。
〔かなり昔〕は「ゆずったら負け!」的な殺伐とした風景とマインドが当たり前でした。私も合流側、本線側に関わらず合流ポイントが近づくと(腕まくりまではしませんでしたが)テンションが上がったものです。これが一転〔少し前〕では「ゆずり合いマインド」の啓蒙などを経て、「ゆずる」という平和な状況が定着しました。〔かなり前〕を知る人間からすると信じられない平穏な時代の到来でした。しかし、これが定着したからこそ〔最近〕では「本線側がゆずらないのはおかしい!」的なマインドが、いつの間にか蔓延し、「いかなる時でも本線優先」の道路交通法の定めとは異なる"常識"が混在し始めています。ゆずることが"美徳"に見えるので、余計に「道路交通法を守ることでゆずらない人」が、周りからは「心狭き人」に見えてしまう・・・なんかおかしいです。
そもそも「ゆずる」というのは、自分の権利などを曲げて折り合いを付けるという「自発的な気持ちが起点となった善意の産物」ですから、ゆずることを強要していること自体に矛盾が生じています。いずれにせよ、道路交通法の定めとその逆の内容の"常識"が混在していることは、大きな事故につながるリスクを生み出してしまっています。現に今年の4月5日、天皇ご一家の警護のために福島県へ応援に向かっていた奈良県警機動隊の大型バスが、茨城県内の常磐自動車道で本線に合流してきた別の車両との接触を避けようとして横転する事故が発生しています。この事故の原因となった合流した車の運転手が「ゆずるのが当たり前」的な気持ちだったかどうかはわかりませんが、事故発生時刻が午後0時15分頃でしかも渋滞はしていなかったようなので、本線優先の原則(気持ち)が守られていれば普通は起こりえない事故です。
「善意が法令や規則を超える」というのは日本(人)の"美徳"とも言えますが、善意はそれぞれの人や場所、状況などで変わるものですから、とても不確かなものです。それを当てにするのはとても危ないものであると認識する必要があります。同じく車の運転でこの不確かさでヒヤッとするのが、交差点等で右折しようとして対向の直進車が通り過ぎるのを待っているときに、たまにパッシングする車がいます。この時に、右折して良いのかどうか・・・ 実は場所で異なるとも言われています。例えば関東では「先に右折しろ」という気持ちが乗ったパッシングですが、関西では「俺が通るからジャマするな」的な気持ちを込めたパッシングのようです。しかしそれぞれの地域でも逆の人もいます。さらに車社会で論議を呼んでいるのが「サンキューハザード」です。先ほどの渋滞等でゆずってくれた車(の運転手)にお礼の意味でハザードを2~3秒点滅させる・・・これ、実は違反です。「感謝の意を法律違反してまで表したい」というなんと律儀なことか・・・でも、ゆずった車(の運転手)から「他の人はお礼の意志を示すのに、お前はゆずったのにお礼なしか!」と思われるのがやっかい(怖い?)なのでハザードランプのスイッチを押しておこう、というのが実体だと思います。車社会はこういった法律と善意(らしきもの)のつばぜり合いが結構存在する空間です。
道路交通法を超えていつの間にか蔓延している「ゆずらないのはおかしい!」 その背景には「同調圧力」的な"雰囲気"もチラホラ見え隠れしています。
ちょっと話を変えます。 「20分以上の駐車はご遠慮ください」、「この付近での飲食はご遠慮ください」、「エレベータ内での会話はご遠慮ください」。さて、みなさんはこれらの「ご遠慮ください」をどのように解釈していますか? 「出来ればしないでもらいたい」ですか?「やっちゃダメ(禁止)」ですか? 2023年のSirabeeの調査(10~60代の男女1,000名に調査)では、「出来ればしないでもらいたい」が26.1%、「禁止」が73.9%だったそうです(https://sirabee.com/2023/05/03/20163070853/)。
「ご遠慮ください」の正しい意味は「法的な禁止ほど強制力を持った表現ではないが基本的には禁止」となります。以前ネットである弁護士が「ご遠慮ください を守っていない人に慰謝料の請求ができる場合がある」ということで「場面によっては法的拘束力に近い意味を持つ」と指摘していた記事を読んだこともあります。では 「20分以上の駐車は禁止です」、「この付近での飲食はダメですよ」、「エレベータ内での会話は許しません」とはっきり書けばいいのになぜ書かないのでしょうか? 日本独特の「婉曲」という"心遣い"の存在が大きいのでしょう。この「婉曲表現」は、7割強の人が共有出来る日本の社会で深く浸透している「日本人のアイデンティティ」なのですが・・・少なくとも2023年で4人に1人は共有出来ないことも調査結果に表れています。この事実が広まらない中で使われ続けることは、先ほどの車社会の例のような危うい社会に向かわせることになります。
さらに話を変えます。 会社での会議の最後に上司から「出来れば会議の結論を踏まえた資料を今日中に作成して欲しい」と言われたあなたはどうしますか? 「今日中に作成する」、「今日中に作成しない」二択ですね。恐らくほとんどの"日本人"は、今日中に資料を完成させる行動を採ることでしょう。私もそうでした。何故なのか? 上司の発言に「今日中に資料を作成しろ!」という本音(真意)を感じ取り、それに即して行動するという"忖度"が、ある意味"出来る部下"の証というような文化が存在していることが挙げられます。
では、上司が同じことを外国人に言ったとします。何が起こるでしょうか? 頼まれた外国人の多くは、資料が完成していなくても定時には帰り支度を始めるでしょう。上司が「資料はどうなった?」と聞くと「出来ませんでした」と普通に返され、「そりゃぁ困るよ」とでも上司が言えば「えっ? 私への指示は、私が出来るのであれば今日中に作成しろ、でしたよね? 今日は出来なかったので後日完成させます。では、良い夜を!」とでも言いながらるんるんで会社を出て行くことでしょう。日本人には「えぇ?」となりますが、冷静に読み返してみてください。「出来れば会議の結論を踏まえた資料を今日中に作成して欲しい」・・・「出来れば~」と言ってしまっていますし、最後の締めが「~欲しい」です。あくまでも"願望"です。では"願望"ではなく命令形とすると「出来れば会議の結論を踏まえた資料を今日中に作成しろ」・・「出来れば」と「作成しろ」は馴染みません。「作成しろ」であれば「絶対に」ということですから、「絶対に会議の結論を踏まえた資料を今日中に作成しろ」となりますね。 事象として今日中に資料を作成する意志を伝えるための文言は、外国人にとっては「絶対に会議の結論を踏まえた資料を、今日中に作成しろ」しか存在しません。しかし日本人にとっては「絶対に会議の結論を踏まえた資料を今日中に作成しろ」と「出来れば会議の結論を踏まえた資料を、今日中に作成して欲しい」の二通り存在するという事実が浮かび上がってきます。ある意味日本人は「面倒」なのですが、その「面倒」なことだらけの大海でしっかり泳げているのも日本人です。自分が泳げてしまうから「面倒」をやめられないのかもしれませんね。
さて、3つの話・・・背景には日本で「一言えば十伝わる」ことが多い理由が隠れていそうです。ちなみに、「一言えば十伝わる」と私もよく使うのですが、「一聞けば十を知る」が元々の言い回しだったようです。聞き手側の視点だったものが伝えて側の視点に入れ替わったようにも見えます。
ところでコンテクスト(context)という言葉ご存じですか? 一般的には「文脈」、「状況」といった意味で使われていますが、コミュニケーションの"場"での意味は、コミュニケーションで使う"言葉(単語や文章)"そのものではなく、その"言葉"が使われた意図、背景や前提、参加者の関係性、その場の雰囲気、文化的価値観など、"言葉"以外の要素を含む"文脈"のこととなります。このコンテクスト、文化ごとに異なりますが、大きく分けると「ハイコンテクスト文化」と、「ローコンテクスト文化」が存在します。
ハイコンテクスト文化は、コミュニケーションの前提、参加者の関係性や立場、表情、タイミングなどコミュニケーションに使われる情報が言語以外の要素に依存している文化で、「一言えば十伝わる」ことが期待されるコミュニティです。日本は「空気を読む」、「忖度する」、「察する」といった行動様式が根付いていて、ハイコンテクスト文化の典型例とされていています。先ほど書いた3つの話はそれぞれ、「ゆずり合いの空気感が拡がると、それがコンテクストとして同調圧力的な要素として居座ってしまう」、「婉曲表現が互いの共通認識の確認として機能している」、「上司の指示は曖昧でも部下が意図を汲み取ることが当たり前となっている」ということで、ハイコンテクスト文化の象徴的事象です。「一言えば十伝わる」ということは、言わなくても済む"九"をコミュニケーションに参加している全ての人が、暗黙の了解として予め共有していなければハイテクスト文化は成立しません。すなわち同じ文化圏で育った人同士だけに成り立つものでもあります。3つめの話で触れたように、日本人同士だから成り立つのであって、外国人(=この文化に触れてこなかった人)との間では、そもそもハイコンテクスト文化的なコミュニケーションは成立しません。しかし、ハイコンテクスト文化圏に住む多くの人々がこの文化圏そのものを認識・意識していないので、大きな誤解や不信感、擦れ違いを生じさせています。
グローバル的にはほとんどの国はローテクスト文化圏です。建国当初から多様性国家であったアメリカは代表例です。「言葉」にコミュニケーションしたい情報を詰め込んで、明確に伝えることを基本としています。「十言えば十伝わる」ですね。すなわち、ハイコンテクスト文化とは異なり、コミュニケーション参加者間で共有出来ているものが少ないことを前提としています。民族や宗教などの違いで誤解や擦れ違いが起きないように、具体的な説明を詳細に、かつ明示的に書面や数字を使って表現することが重んじられます。契約社会たる所以です。契約書はまさにローテクスト文化でのコミュニケーションの典型例と見ることが出来ます。先ほどの3つめの話での「今日中に資料を作成する」ことの伝え方の文章が、ハイコンテクスト文化圏(日本人)の人同士では2種類あっても他の要素や前提としての共有事項で真意を伝えることが出来ますが、ローコンテクスト文化圏(外国人)の人同士やローコンテクスト文化圏の人とハイコンテクストに文化圏の人の間では、文章は1つしか存在できないことになります。この辺は日本で「契約」という仕組みが、一般の人々に馴染んでこなかった背景なのかもしれません。
日本のさまざまな組織で外国人が増えてきているグローバル化の波は、日本人及び日本人中心の組織にハイコンテクスト文化を"意識的に止める"ことを求めています。なぜならばローコンテクスト文化圏の人に、例えば日本のようなハイコンテクスト文化圏での暗黙の共有事項を感覚として身につけてもらうことは大きな困難を伴います。ハイコンテクスト文化圏の人がローコンテクスト文化に合わせるためには、文章の書き方などで「自分が"くどい"と思う位の文言」を並べることでどうにかなります。とは言っても、自分の中の"暗黙の当たり前"を見える化するというやっかいな作業が必要ですが・・・日本ではこれをやるしかありません。なぜならば、やっかいなことに日本人同士でもハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化の混在が始まっているからです。
次の新人Aさん(日本人)に関する実話、「○○○○○○」と「△△△△」の部分でAさんはなんと言ったか考えながら読んでみてください。
入社半年の新人Aさんに、「来週金曜日までに、今日の会議で決まった内容のプレゼン資料を作成してください。」と依頼しました。時は経ち・・・依頼締め切り日の前日の木曜日になっても資料の作成状況の報告・連絡・相談がないので、周りのメンバーは順調に進んでいるのだろうと思っていました。金曜日のミーティング時、Aさんに「プレゼン資料をメンバーと共有したいので、発表してください」とお願いしたところ、Aさんは「プレゼン資料は出来ていません。」と悪びれる様子もなく発言しました。「・・・」一瞬の静寂後、「では、なぜ昨日のうちに資料が出来ないことを言わなかったのですか?」と話したところ、「○○○○○○○○○○○○○○○○」○○○○○○○と、どうどうと返してきました。一同唖然として、しばらく沈黙が続きました・・・。さらに、メンバーのひとりが、「資料が出来ていないということは、ここに集まった人たちが無駄な時間を過ごすことにもなるので、すいませんの一言があってもいいのではないでしょうか?」と指摘したところ、Aさんは「△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△」と堂々と切り返されました。
さて、「○○○○○○」と「△△△△」、なにか思い付きましたか?
「○○○○」は、『出来ないときは報告しろ とは言われていませんでした。』
「△△△△」は、『資料が出来なかったのは、この資料を私が作成できると考えて指示した人が間違っていたのだから、私の問題ではありません。なぜ私が謝らなくてはならないのですか?』
これを読んで、「何を居直っているのか?」「非常識過ぎる!」などの印象を持たれた方も多いかと思います。しかし、ちょっと冷静に心穏やかに、具体的には「報連相は当然でしょう」「仕事は出来るか否かではなくやるしかないでしょう」的な暗黙の前提を横に置いてもう一度読み返してみましょう。新人Aさんが真面目に答えていることにも一理あるように見えてきませんか? もし見えてきたならば・・・「ようこそ ローテクスト文化圏へ!」。このような話は、(ローコンテクスト文化圏の)外国人との間ではよく起こることです。すなわち、この新人Aさんは日本人ですがローコンテクスト文化圏の住人なのです。従って、この話での指示の与え方は「①来週金曜日までに、今日の会議で決まった内容のプレゼン資料を作成してください。」だけではなく「➁この作業はもしかするとAさんにはまだ難しいと感じるところもあるかもしれません。」、「③この仕事はAさんの成長の機会でもあるので敢えてお願いします。」、「④もし資料作成でちょっとでも困ったことが出来たら私か会議の参加者誰でも構わないので状況を話して相談してください。」「⑤必ず前日(木曜日)の13時には私に作成状況を説明してください。」というように、依頼する作業をハイコンテクスト文化圏では言わなくても良い部分も事細かに見える化して伝えることが必要となります。これは、ローコンテクスト文化圏では当たり前の考え方です。日本でもジョブディスクリプション(ジョブ定義書)が使われ始めていますが、さらに業務指示一つひとつも「定義書」を介した「契約文化」が必要になってきているのかもしれません。
では日本はなぜハイコンテクスト文化となったのでしょうか? 言語や民族、地理的要因や宗教的要因などさまざまな要因により、日本の多くの人々の価値観や生活様式に同質性が生まれました。その同質性が「一言えば十伝わる」の言わなくても良い"九"の要因を育んできました。この"九"を共有出来ないと、日本の中で・日本の各地域の中で"共同生活"することは難しくなります。この歴史が日本の「同調圧力」を生み出し、多くの功罪を生んできました。これからも生み出していくのでしょう。しかし、これまでと大きく異なることが起きています。若年層を中心に日本人の中にもローコンテクスト文化圏の住人が増えてきていることです。さらに、ローコンテクスト文化では唯一のコミュニケーション手段として「しっかりとした・きちんとした言語力」が必要なのですが、残念ながら日本ではショートメッセージの浸透や読書の機会喪失、生成AIの(人がついていけないほどの)急速な浸透などで、若年層中心に言語力・文章力が著しく低下してきているのも事実です。さらにリモート環境などの普及・浸透でコミュニケーションでのコンテクストに触れる機会が喪失しているのも現実です。すなわち日本が今直面しているのは「言語力が乏しいローコンテクスト文化圏」への移行です。
ハイコンテクスト文化にどっぷり嵌まってきた日本は、この前例を見ない新しい文化圏への道筋をきれいに描くことが出来るのか・・・「一言えば十伝わる」から「十言えば十伝わる」であれば良いのですが、「十言えば一伝わる」、換言すると「十言っても一しか伝わらない」というとんでもない文化圏になってしまわないか・・・いま、問われています。
〔本コラムの執筆に当たっては、"AI"は使っていませんが"ai(愛)"は使っています。〕
〔本コラムは偶数月の10日頃更新しています。〕

技術士(電気・電子部門)
永倉正洋 技術士事務所 代表
一般社団法人 人材育成と教育サービス協議会(JAMOTE)理事
1980年 日立製作所入社。 システム事業部(当時)で電力情報、通信監視、鉄道、地域活性化などのシステムエンジニアリングに取り組む。
2003年 情報・通信グループ アウトソーシング事業部情報ユーティリティセンタ(当時)センタ長として、情報ユーティリティ型ビジネスモデル立案などを推進。
2004年 uVALUE推進室(当時)室長として、情報・通信グループ事業コンセプトuVALUEを推進。
2006年 uVALUE・コミュニケーション本部(当時)本部長としてuVALUEの推進と広報/宣伝などを軸とした統合コミュニケーション戦略の立案と推進に従事。
2009年 日立インフォメーションアカデミー(当時)に移り、主幹兼研究開発センタ長としてIT人財育成に関する業務に従事。
2010年 企画本部長兼研究開発センタ長として、人財育成事業運営の企画に従事。
2011年 主幹コーディネータとしてIT人財に求められる意識・スキル・コンピテンシーの変化を踏まえた「人財育成のための立体的施策」立案と、 組織・事業ビジョンの浸透、意識や意欲の醸成などの講演・研修の開発・実施に従事。
2020年 日立アカデミーを退社。
永倉正洋技術士事務所を設立し、情報通信技術に関する支援・伝承などに取り組む。日立アカデミーの研修講師などを通じて、特に意識醸成、意識改革、行動変容などの人財育成に関する立体的施策の立案と実践に力点を置いて推進中。
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