- サービスとの向き合い方 -
2023年12月11日'ひと'とITのコラム
'ひと'とITのコラム 第53回に続き、ITリテラシーと日本人気質の関係性をテーマとしてお送りする第3弾は、サービスと日本人気質についてです。
いまやサブスクリプションサービスは私たちの身近に多数存在します。映画等の動画配信サービスや電子書籍サービス、食材配送サービス、ファッションのレンタルサービス、カーリース、・・・、と多種多様なサービスが続々と創出されています。日本人特有の価値観や文化は、サービスの提供や受け取りに何等か影響を与えていそうです。では、数十年前にはなかったこれら「サービス」の受け止め方に、世代による違いはあるのでしょうか?
筆者が考える「サービスとの向き合い方」について、どうぞお楽しみください。
(コラム担当記)
今回も日本人気質の話となってしまいました・・・
11月16日に、元歌手の安室奈美恵さんの楽曲がすべてのサブスクリプションサービス(サブスク)と公式YouTubeで視聴できなくなったというニュースが駆け巡りました。ネット上では「何が起きた?!」、「いつ復活する?!」、「聴けるものが手元に何もない!」といった「アムラー」中心(たぶん)の悲鳴にも似た声が飛び交いました。理由などが明らかになっていないことも多くの人の不安を増長させています。現在も視聴できない理由や再開するのかどうかも含めた見通しがわからないままで、なかなか落ち着きを取り戻せない状況です。また、さきほどの「聴けるものが手元に何もない!」という声の反映なのか、中古品販売店やレコードショップでは安室奈美恵さんのCDやDVDが品薄になっていて、すでに買えない人もいるなど多方面に影響が拡がっています。ネット上では「やはりサブスクではなく、CDを買っておけば良かった」という後悔の声も散見され、この"事件"で多くの人がサブスクをはじめとしたサービスの"実体"を改めて実感する契機となっているようです。
そもそもサービスとは何なのでしょうか? 例によって恒例の辞書調べです。(広辞苑(第7版)と大辞林(2.0))
両方の辞書で共通しているのは、「奉仕」的な意味が最初に来ていること。面白いのは「給仕・接待」と「便宜」的な意味が、2番目と3番目で入れ違っていること、大辞林は「サービス産業」的な意味を分類したり教会でのサービスまで対象を広く捉えていること などの"揺らぎ"が見えます。(余談です・・・ここ生成AIの出番ですが、生成AIで調べると広辞苑、大辞林(だけではないですが)の記載内容を含めて文章を"生成"するので、各辞書が主張している意味の"重み"や言葉の使われ方(普及具合)などの"背景" が見えなくなり、記載されている文言の"厚み"や"深み"などの"揺らぎ"が感じ取れない平べったい理解につながる気がします。)
いずれにしてもサービスという言葉がかなり幅広い意味で使われていることがわかります。これは辞書で調べるまでもなく「サービス精神」、「サービスエリア」、「サービス残業」、「サービス産業」、「行き届いたサービス」 等々 日常生活でも実感していることです。この幅広のサービスを清水滋氏が著書『入門「サービス」の知識』(1994.2,日本実業出版)の中で「精神的サービス」、「態度的サービス」、「犠牲的サービス」、「機能的サービス」に整理分類しています。辞書の記述と紐づけてみると、
「精神的サービス」・・・・・・・・広辞苑 ① 大辞林 ①
「態度的サービス」・・・・・・・・広辞苑 ② 大辞林 ③
「犠牲的サービス」・・・・・・・・広辞苑 ③ 大辞林 ②
「機能的サービス」・・・・・・・・広辞苑 ④ 大辞林 ⑤ ⑥
と綺麗に紐付きます。
ところで日本では、恐らくサービスという言葉から受ける印象が世代間で異なっています。年齢層が高くなるとサービスという言葉は「サービスしろ!(≒値引きしろ!) おまけを付けろ!」に代表される「犠牲的サービス」が最前面で「態度的サービス」と「精神的サービス」がその後ろに控えている感じでしょうか。中年層は「精神的サービス」と「態度的サービス」、「機能的サービス」がほぼ同じ位置付けでイメージされると思います。では若年層は?というと、恐らく冒頭で触れた「サブスクリプションサービス」的なニュアンスではないでしょうか。これは「機能的サービス」のようにも思えますが、他の世代では「製品(もの)の購入」との比較でサービスの外側から意識しているのに対し、若年層はサービスの内側から意識しているように思えます。この視点でのサービスという言葉は、広辞苑と大辞林には記述がありません。「サービス産業」的な記述に近いことは確かなのですが、サービス産業という区分的な使い方(外側の視点)ではありません。「価値の入手方法(対価の支払い方)」の名称です。言わば「商品区分」的な使い方で、この観点での記述は今のところありません。しかし辞書の記述は時代を反映しますので、改訂される日も来るのかもしれません。
では、なぜ日本では世代間で「サービス」の印象が異なるのでしょうか?
「サービス」という言葉、言うまでもなくカタカナで表記されるということは外来語です。英語でService(名)⇒serve(動)となります。ではこの英語の語源は何か? ラテン語の「servus:奴隷」に由来しています。 では「サービス」という単語は英語の世界でどのような"情景"を表現しているのでしょうか? ウィズダム英和辞典(4.0)でServiceを調べてみました。記述がかなり長いので要点だけ記すと、
となります。
英語でのサービスの"情景"は、広辞苑、大辞林が見せる日本の"情景"とはかなり違い、大部分は公共・公益サービスのようです。ただし、日本でも公共事業や公益事業が「公務」として国民や住民への「奉仕」的なニュアンスはあるので、根っこの部分では共通因子の存在を感じます。このウィズダム英和辞典の記述で印象的なのは、日本語で「無料の景品(接待)」や「これはサービス(無料)です」という「無料」というニュアンスで使うのは間違いであることを何回も念押していることです。
ここから見えてくるのは、英語圏での「Service」という言葉の進化と日本語圏での「サービス」という言葉の進化の違いです。乱暴に整理すると、ラテン語での「奴隷」からイメージされる"情景"の画材は「仕える」と「無報酬(無料)」でしょう。英語圏ではこのうち「仕える」がベースとなった"情景"へと拡がっています。日本人がアメリカに行くときに結構困るのがチップの文化です。チップの文化の根流には「態度的サービス」、「精神的サービス」は対価が必要だ、という原理原則があります。つまりこの原理原則が感性(国民性)として根付いていることが、「無報酬(無料)」と「仕える」が切り離されたことにつながっているのでしょう。これに対し、日本語圏では「無報酬(無料)」+「仕える」がベースとなった"情景"へと拡がっています。日本では「おもてなし」あるいは「お客さまは神様」的な"奉仕"のニュアンスを求める文化が根強く存在し、例えば店で商品を購入するときに商品の善し悪しだけでなく、店員の気持ちや態度などを重視します。すなわち「精神的サービス」、「態度的サービス」は対価の対象ではなく、「商品を買うときの"付随的な要素"」なのでそれ自体意識することはほとんどありません(この辺が日本のカスタマーハラスメントの遠因になっていそうです)。さらに「犠牲的サービス」は自分が得するために相手に損を強いる訳ですから、お金を払うという行為の真逆となります。「サービス」という言葉が日本で普及し始めるときに「無報酬(無料)」+「仕える」がセットとして浸透する条件が揃っていたとも言えるでしょう。日本で「機能的サービス」の概念が定着し始めたのは、所謂工業社会(製品の購入が豊かさの源泉だった社会)の終焉を迎えた2000年頃ですので、高年齢層の「サービスしろ!(≒値引きしろ!) おまけを付けろ!」に代表される犠牲的要素が「サービス」という言葉の出発点となってしまったのでしょう。「サービス」という言葉は〔ラテン語(servus)〕⇒〔英語(Service)〕⇒〔日本語(サービス)〕の流れで伝わったにもかかわらず、〔ラテン語(servus)〕⇒〔英語(Service)〕で「無報酬(無料)」の"情景"が薄まったのに、〔英語(Service)〕⇒〔日本語(サービス)〕で「無報酬(無料)」の"情景"が復活したということなので、これはちょっと面白いです。
さらに「機能的サービス」の黎明期、「サービスなんかに金を払えるか!」といった根強い抵抗感がありました。1990年代、私も仕事で苦労したのですが、コンピュータのソフトウェアの価格折衝の時、金額の問題以前に「何故目に見えないものに金を払わなければならなのか?!」というお怒りに近い話しに終始しました。従前のコンピュータのソフトウェアは「バンドリング」というハードウェアの"付属"という考え方が定着していました。ところがハードウェアよりもソフトウェアの開発費の方が膨れ上がってきたので「バンドリング」のスタイルが成り立たなくなってきていました。そんななか、コンピュータ業界の巨人であるIBMが全世界でハードウェアとソフトウェアの価格を分離する(別々にお金を取る)「アンバンドリング」のスタイルを打ち出しました。日立も含めコンピュータ業界は一斉にこの方向に舵を切りました。が、日本では大騒動です。そもそもコンピュータに限らず目に見えないものにお金を払う習慣はほとんどなかったと言っても過言ではありません。この時に「日本らしいなぁ」と思った話をひとつ。日本を代表する企業に「アンバンドリング」を理解・納得していただくために、あの手この手の丁々発止を繰り返す苦難の日々が続いていました。お客さまの言い分はやはり「目に見えないものに金は払えない!そもそも社内にも目に見えないものを検収するという決まりはないし、目に見えないものを契約する規則も手順も存在しない!」の一点張り。めげそうでした。ところがある水曜日(何故か曜日だけは覚えているのですが・・・)、いつものように重い足で打合せに臨んだのですがお客さまから開口一番、「来週、ソフトウェアの見積もりを持ってこい!」・・・ "開いた口が塞がらない"というのを自ら実感した瞬間でした。そして情けないのですが、ようやく口にした言葉が「はぁ~?」でした。こういう場面っていつまでも脳裏から離れないものです。この後はスピード最優先の日々です。何しろお客さまが心変わりしないうちに片付けなければなりません。後日、何故豹変したのかをお聞きしました。豹変した水曜日の前日、IBMの営業が「アンバンドリング」の説明と契約変更の依頼に来たそうです。日立の話は聞く耳を持たなかったのに、IBMの話はすんなりと受け入れる。ひどいと思いませんか?お客さまにも「ひどいじゃないですか!」と文句を言ったところ、返ってきた言葉は「日本企業に言われても納得できないけれど、外資系の企業に言われたら納得するしかないだろう!」です。結果オーライなのであまり怒りも湧かなかったのですが、「日本で何かを変えるのに最も効果的なのが"黒船来航"であることは、いつの世も変わらないんだな」と感じた出来事でした。
閑話休題。1990年代後半から所謂「情報社会」ということで製品至上主義の時代から脱却し始めます。「機能的サービス」があらゆる場面で出現し、受け入れられ、定着してきます。家計に占めるサービスへの支出はちょっと古いデータですが(消費者白書)、〔1970年 27.0%〕⇒〔2016年 42.6%〕で約1.57倍となっています。内訳を見ると全ての項目で増えているのですが、顕著なのが『通信』、『教育』、『教養・娯楽』です。それだけサービスが身近で当たり前の存在になったのですが、それは何故なのでしょう? サービスの普及は、社会の豊かさと関係します。日本もまだ発展途上の時代は「三種の神器」という言葉に表れているように、製品(もの)を手に入れることで豊かさを実感していました。ところが人は貪欲な動物ですから、いったん手に入れた豊かさとその源泉である価値はすぐに当たり前となって、その次が欲しくなります(そうでなければ経済活動は停滞してしまいます)。するとあるレベルから製品(もの)を製造して販売することで創出できる価値だけでは応え切れなくなります。例えば自動車。昭和40年代の「新三種の神器」に自動車があります。要は生活の豊かさを実感するために挙って自動車が欲しかったわけです。この時のニーズは、「隣が購入した自動車よりも少しでも性能が良く高級そうな自動車が欲しい!」てな感じでしょうか。製品が発展途上だと、製品の価値として技術の進歩の恩恵をいち早く受けたいのが人情でしょう。すなわち多くの消費者のニーズに応えるには"技術進化"が大切であり、消費者ニーズもその線上にありました。製品(もの)だけで応えられた時代です。しかし多くの人に満足できる製品(もの)が行き渡り社会全体が豊かになると、可処分所得の増大と相俟って消費者がそれまで我慢を強いられていたものを我慢しなくても良くなり、"わがままが言える"状況となりました。所謂「ニーズの多様化」です。すると先ほどの自動車で言うならば、自動車の性能や機能面ではなく、「自動車は維持費も掛かるので、所有はせずに必要なときだけ使いたい」というわがままな声が出てきます。このニーズに自動車メーカが応えるには、技術の進化(製品の進化)だけでは無理です。消費者ニーズと製品(技術)進化の乖離の始まりです。ここで注目されたのがレンタカー。つまり製品の進化の限界をサービスの価値で超えざるを得なくなった瞬間です。ここで整理しておくべきことがあります。「(広義の)サービス事業」という事業には「(狭義の)サービス事業」と「サービス化事業」の二つがあるということです。「(狭義の)サービス事業」は、得られる本質価値がサービスという形でしか実現出来ない事業で、例えば「研修事業」は講師と教室などの設備を使ったサービスでしか本質価値を創出することは出来ません。これに対し「サービス化事業」は、"化"という文字があるように、サービスでないものをサービスに変化させる事業ということです。先ほどのレンタカーで見てみると、「自動車で移動する」という本質価値は「自動車の所有」という「製品(もの)の購入」でも手に入れることが出来ます。しかし、「所有しないで」というニーズに応える価値は「製品(もの)を製造して販売する」という形では創出できないので「サービス化」することで実現しています。つまり「(狭義の)サービス事業」は呼び名はどうであれ、昔から存在していました。21世紀に入って注目されてきたサービスは、多くが「サービス化」です。「サブスク」はその最たる例でしょう。「音楽の視聴」という本質価値を変えたのではなく、料金の支払い方に新たな価値を提供しています。「サービス」と「サービス化」では、価値の考え方が根本から異なっています。
さて、中年層はこの時代にサービスに触れてきているので「機能的サービス」は、必要な価値を手に入れるための当たり前の手段です。製品(もの)と違ってサービスは柔軟性があります。ますます多様化する消費者ニーズとサービスで一儲けしようとする輩が巧く絡み合って、さまざまなサービス(サービス化)が出現します。ここにはICTと課金の知恵の進化が大きく貢献してきています。特に消費者目線では、製品(もの)を所有する場合のコストと、サービスを利用するときのコストを比較しますから、「所有から利用」の流れは止まりようがありません。「製品からサービスへの進化(サービス化)」は、音楽視聴が「従量課金サービス」から「サブスクリプションサービス」へと進化したように「サービス(化)からサービス(化)への進化」となり、そのアジリティ性も相俟って加速度的な進化を遂げてきました。若年層は製品(もの)とサービスの比較ではなく、サービス(化)とサービス(化)との比較で価値観を磨いています。
今回の安室奈美恵さんの件で多くの人が実感したことのひとつが、「サービスは手元に残らない」という現実でしょう。「ものを買う≒所有権を手に入れる」を実感してきた世代は、サービスだとサービスが終了してしまうと何も残らないことは当たり前の感覚です。しかし、サービス前提の世代にとっては「サービスが終了することもある」ということも含め青天の霹靂なのでしょう。サービスの特徴として「目に見えない」ということがよく言われますが、他にはどのように整理できるのでしょうか。
などが挙げられます。製品の購入と比べると、コスト低減や柔軟性の確保、所有の付加軽減などに寄与する要素満載ですが、いったんサービスが停止もしくは廃止されると何も残らない状況になることも明らかです。「サービスのメリットとその副反応」という関係ではなく「サービスのメリットが即サービスのデメリット」ということです。それだけサービスの利用、特にサービス化の利用はリスクが高いということなのですが、今回の出来事で多く人が認識していないというこが表出したように感じます。
ちなみに「サービスだと残らないのでサービスの利用ではなく、ものを購入した方が良い」という理由でCDを購入したとするのであれば、それは違います。CD購入に変えることは「サービスの乗り換え」に過ぎません。CD購入は「製品(もの)の購入」ではなく「視聴する権利の永久許諾権の入手」で、サービスの利用です(CD購入とレンタルCDの価格差は、視聴権が永久か期間かの違いとなります)。同様に「本を買う」も「作品を読む権利の購入」でやはりサービスの利用です。購入とは所有権の移動が伴う行為ですから、楽曲や著述物を購入するということは、その著作物(の版権)を手に入れるということです。その結果他の人が聴いたり読めなくなる状況となることとなります。CDも書籍も先ほどの本質価値をサービスでしか創出できない「(狭義の)サービス事業」ということです。
この先、サービス化事業はICTの更なる活用で、ますます進化し普及することでしょう。私はそこに二つの落とし穴が潜んでいると思っています。
一つ目は、「サービス化は本質価値ではない価値の創出に主眼が置かれる」ということです。製品(もの)の進化は本質価値の進化でした。サービスの世界でも、(紙媒体の)本から電子書籍、さらに"聴く書籍"や"要約して読む書籍"のように進化させている例も無くはないですが、サービスの普及過程で必ずしも主流とはなっていません。サービス化で本質価値の進化がおざなりにならないように意識する必要があります。
二つ目は、進化し続けるサービスの利用者は、製品(もの)の時代を知らない世代が中心となることです。そこには危うさを感じます。本質価値の権化である製品(もの)を使い倒していないということは、本質価値を見抜く眼力と先述のサービスを外側から評価する見識が不足しているということです。一人ひとりがサービスをメリットとデメリットの両視点で見極め、利活用の"責任"を果たすマインドの必要性を認識し、それを促す文化の醸成が大切となる時代を迎えています。
最後に二つ 余談ですが・・・
辞書にもあった「(競技用語)サーブ」、テニスや卓球、バレーボールなどで最初にボール(球)をコートに入れる動作の名称で使われていますが、この語源もラテン語の"servus:奴隷"です。これらの競技ではボール(球)を入れるときには、相手が打ち返しやすいように入れるのがルールだったので、「奉仕」的な名称が使われたようです。いまではルールが変わり、サービスエースが有力な得点源となっているので、言葉の意味とは真逆の状況となってしまいました。「緑色なのになぜ黒板というのか?」と同じように、名称は定着するとたとえ真逆の意味でもそう簡単には変えられないということなのでしょう。
文中で「目に見えない」と私も書いているのですが、「耳に聞こえない」、「鼻で匂わない」とは言わないのに、なんで「見えない」だけは「目に」とわざわざ言うんだろう。「心で見る」ことがあるから? けれど「心で聞く」だってある・・・ 色々引っかかると、疲れます。
※IBMは、International Business Machines Corporationの、米国およびその他の国における商標または登録商標です。
※YouTubeは、Google LLC の商標です。
技術士(電気・電子部門)
永倉正洋 技術士事務所 代表
一般社団法人 人材育成と教育サービス協議会(JAMOTE)理事
Mail:masahiro.nagakura@naga-pe.com
1980年 日立製作所入社。
システム事業部(当時)で電力情報、通信監視、鉄道、地域活性化などのシステムエンジニアリングに取り組む。
2003年 情報・通信グループ アウトソーシング事業部情報ユーティリティセンタ(当時)センタ長として、情報ユーティリティ型ビジネスモデル立案などを推進。
2004年 uVALUE推進室(当時)室長として、情報・通信グループ事業コンセプトuVALUEを推進。
2006年 uVALUE・コミュニケーション本部(当時)本部長としてuVALUEの推進と広報/宣伝などを軸とした統合コミュニケーション戦略の立案と推進に従事。
2009年 日立インフォメーションアカデミー(当時)に移り、主幹兼研究開発センタ長としてIT人財育成に関する業務に従事。
2010年 企画本部長兼研究開発センタ長として、人財育成事業運営の企画に従事。
2011年 主幹コーディネータとしてIT人財に求められる意識・スキル・コンピテンシーの変化を踏まえた「人財育成のための立体的施策」立案と、 組織・事業ビジョンの浸透、意識や意欲の醸成などの講演・研修の開発・実施に従事。
2020年 日立アカデミーを退社。
永倉正洋技術士事務所を設立し、情報通信技術に関する支援・伝承などに取り組む。日立アカデミーの研修講師などを通じて、特に意識醸成、意識改革、行動変容などの人財育成に関する立体的施策の立案と実践に力点を置いて推進中。
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