- 今の時代、どうやって自分の意思を証明するのか -
2020年10月05日'ひと'とITのコラム
昨今の新型コロナウイルスの影響により私たちの働き方は急激に変化し、テレワーク、特に在宅勤務はごく一般的なこととなりました。そしてニューノーマルという言葉に見られるように、様々な価値観も大きく変化しています。
そのような中で、今回のコラムでは、執筆者である永倉氏が2020年9月に新たな立場でスタートした第1号のコラムです。みなさま、引き続き'ひと'とITのコラムをお楽しみください。
(コラム担当記)
『また、間が空いてしまいました。何回か書き始めたのですが、筆が進みませんでした。いや、「キーボードが進まない!?」・・・味気ないですね、「指が走らない!?」・・・時代とともに言い回しも変わるものです。』
すみません。今回はかなり間が開いて、世の中も一変してしまいました。コロナ禍・・・全く予想もしていなかった事態があっという間に"定着"しています。長期にわたる安倍政権が菅政権に変わりました。さらに、私事で恐縮なのですが、私の人生も変わりました。この8月に65歳となり、40年と5ヶ月の会社人生を終えました。65歳・・・前期高齢者ということなのですが、前期は74歳までで10年間の有期、後期は寿命までの不定期期間、この区切りが行政上必要なことは理解しつつも、実際に足を踏み入れると一体何?という感じです。
本コラムは日立アカデミーからの発信なので、退職したら筆を置く(キーボードを置く?!)つもりでいました。しかし、9月から個人事業者として人財育成の仕事を続けることにしましたので、外部の人間ではありますがコラムの発信も続けることにしました。ということで、もうしばらくお付き合いください(ならば、継続的に書け! ということですよね・・・自覚しています (-_-;) )。
余談を続けますが、個人事業者としてスタートを切って約1か月経ったのですが、「仕訳帳」「出納帳」「日計表」「総勘定元帳」「租税公課」「事業主貸」「事業主借」「貸方」「借方」・・・この手の言葉が連日頭を渦巻いています。あまりに多くのことを会社人生では知らなくて良かったのだと実感しています。会社の中で誰かがやってくれていたわけで、その人に感謝です。多くの個人事業者がいわゆる"帳簿付け"を当たり前に日々こなしているわけで、個人事業者に敬意です。人生変わると見るものと見方が変わります。だから人生って面白いのでしょうね。
さて、世の中の状況を一変させているコロナ禍は、今まで潜在化していたさまざまな事象を顕在化させています。中でもリモートワーク・在宅勤務という新しい働き方を通じて、今までは気にしていなかったり目を瞑ってきた"仕事での当たり前"を、改めて問い直す機会を提供してくれています。多くの当たり前の中で、私が特に気になったのが判子です。
3月、ステイホームの掛け声の下、多くの企業が「取りあえず在宅勤務」をスタートさせました。本来年単位で業務改革として検討して段階的に実行することを、一夜にして実現させたわけである意味"革命"が起きたと言っても過言ではないでしょう。マスコミの取り上げ方も、最初は感染予防を後押しする観点から在宅勤務を推奨するトーンでしたが、だんだん「取りあえず在宅勤務」の問題点に観点が移ってきたように感じました。何しろ状況が「取りあえず在宅勤務(≒なんちゃって在宅勤務)」とならざるを得なかったわけで、突っ込み処は満載です。
こんな中で、話題になった一つに判子がありました。在宅勤務でITを駆使したリモート環境での業務、それなりに軌道に乗って出社しなくてもなんとかやれそうだ、と思い始めた矢先、出社を強いたものが判子でした。従来の実際の(紙)書類ベースの業務を無理繰りリモート化しているので、押印が必要な書類がしっかり存在しています。しかも押印が必要な書類は、お金に関することや権利関係に絡む重要な業務で使われていることが多いため、リモートだからと言って端折ることが出来ません。仕方なく出社することとなります。テレビでは、会社に出て誰もいないオフィスで、リモート環境のなかせっかくペーパーレスで処理した書類をプリンタで紙化し、片っ端から黙々と押印し、それが終わるとサッサと帰宅する、という印象的なシーンがありました。押印の必要性は、単に自分の会社の規則を変えるだけでは完全に無くすことは難しいわけですが、各省庁も規則を変えて押印を極力減らす取り組みも公表され始めています。コロナ禍が行革を加速化させています。
この現象で私が興味を持ったことは、コロナ禍以前から引っかかっていたことと相俟って、「そもそも判子・押印って何?」という素朴な疑問です。気になっていたのは、保険や銀行、役所の書類申請で、「判子を押す」場面の不思議さです。IT化が進み、書類に最初から私の名前が印字されているものも多くなりました。ところが、事前にITで印字されている場合は押印が必須なのに対し、印字されていないで自分で書く場合(自署)は"印"の欄がある場合でも押印不要です。確かさや安心感の観点から何となくそんなものかな と思いつつも、IT化が進んだ書類には判子を押さなくてはならないのにITではなく手書きの場合の方が判子を押さなくて良い、というのが何か逆ではないかという印象を持っていました。
「そもそも判子・押印って何なのでしょうか?」この疑問は、「そもそも人がある書類に記載されていることを正しいという意思をどうやって証明するのか?」ということにたどり着きます。このことは、IT環境で頻発しているなりすましなどの問題にもつながる、やっかいで不思議なことなのです。
我々が何かの書類に押印するのはどのような場面でしょうか?契約や銀行通帳でお金を引き出す、さらには役所で住民票などの取得の申請など、その書類に記載していることが正しい→「記載していることが自分の意思であることを証明する」(私が永倉本人であるという確認ではありません)必要がある場合が多いと思います。すなわち押印するということは、当然ながらその意思を示す正しさを証明することが重要だということです。この原理原則をしっかり実現しているのが「実印」であり、これに近いのが「銀行印」です。
ここで、言葉の整理を。
私はここまで、判子(はんこ)と押印という言葉だけを使ってきました。しかし多くの方々は、判子、押印よりも印鑑、捺印という言葉の方を普段使っていてなじみがあるのではないでしょうか?判子、印鑑、捺印、押印、さらには印影、印章、そして署名、記名、これらの言葉の定義を整理すると、「記載していることが自分の意思であることを証明する」ことのからくりと難しさが見えてきます。
「判子(はんこ)」「印章」「印影」「印鑑」の違い・・・
「判子(はんこ)」とは、高級品だと象牙や柘植の木、安ければプラスチックで作られている円筒状のもの。よく「印鑑を持ってくる」と言いますが、実は「印鑑」ではなくて「判子(はんこ)」。
「印章」とは、「判子(はん)」の平らな面(印面)に名前を彫ってある部分。
「印影」とは、印面に朱肉をつけて紙に押して残る文字。「判子(はんこ)」側ではなく紙側。
「印鑑」とは、役所や銀行に届けて登録されたもの。その「印影」及び「印章」の所有者が明確で、真偽を確認することができる「印影」が「印鑑」。そのうち役所という公的第三者によって個人を証明する「印鑑」が実印で、一人で一つのみに登録可能。銀行に届け出している「印鑑」が銀行印、届け出をしていない「印鑑」相当が認印、ということになります。ちなみに、日本最古の「印鑑」はみなさんも社会科の授業で習った「後漢書」に記述されている、国宝の「漢委奴国王」の金印です。印鑑の制度そのものは平安時代とされ、藤原氏の私印が残されているそうです。当時一般の人は、自署や人差し指で点を打つ「画指(かくし)」などで、婚姻届や売買証文などを締結していたようで、今でも判子が必要なときに持ち合わせがないときに、指に朱肉をつけて押すことがあるのは、この名残なのかもしれません。
次に「署名」と「記名」の違い・・・
「署名」とは、本人が自筆で自分の名前を書くこと(自筆サイン、自筆)。
「記名」とは、他人による代筆や印刷された活字、ゴム印で押したもの。コンピュータ出力の帳票で名前がはいっているものもこれです。
さらに「捺印」と「押印」の違い・・・
「署名」には「捺印」、「記名」には「押印」。
これらを効力の高さで整理してみると、最も高い側から
『署名+(実印での)捺印』→『署名+捺印』→『署名のみ』=『記名+押印』→『記名のみ』
となります。『署名』=『記名+押印』で、判子を押せば記名でも自筆サインである署名と同等の信頼性を持つとされています。これが、私が以前から『IT化が進んだ書類には判子を押さなくてはならないのにITではなく手書きの場合の方が判子を押さなくて良い』という違和感の正体でした。プリンタの出力ですでに印刷されている「記名」に「署名」と同等の信頼性を持たせるために「押印」が必要となる、ということです。この趣旨だと、IT化で記名済みの書類・帳票・伝票類が増えれば増えるほど、判子を持ち歩くことが求められることになります。だから、前政権のIT担当大臣が判子の業界団体の会長だったのかもしれませんね(そんなわけないですが、もしそうだとすると意義ある人選だったとも思えます。ちなみに今は会長職を退いたそうです)。
さて、ここで大きな疑問です。「認印」の存在です。「三文判」とも呼ばれるくらいに安く手軽に手に入れることが出来ます。誰が誰の名前が彫られている判子を購入しても、誰も文句を言われることはありません。35年ぐらい前ですが、出張でよく博多に行きました。最も繁華街の天神の交差点の歩道でベニヤ板を広げた露天商が出ていたのですが、商いは"貸しはんこ"でした。一押しいくらだったかは忘れましたが、商売として成り立っていたようです。当時は今以上に判子(正確には印影)が必要な時代でした。出張精算でよく指摘を受けたのが、タクシーの領収書です。手書きの領収書だと、運転手さんが判子(印影)を押してくれていたのですが、メータから出てくるレシート状の領収書(今はほとんどこの形態ですが)は、判子を押されずに印影がないケースが頻発しました。「判子がないから認められません!」困りました。ただ、タクシーの領収書は普通会社名だけで、運転手さんの記名(署名)はなかったので、社内の人に判子を借りて押したこともありました(すでに時効なので・・・)。さらに、毎回借りるのは面倒なので、2本判子(三文判)を買いそろえていました。確か"木下"と"佐藤"でした(くどいようですが、すでに時効です)。
先ほど、『署名』=『記名+押印』と書きました。この等号記号が成立するのは、印影の信憑性、判子の所有者が確かであることが前提のはずです。しかし、実態はこれを裏付けてはこなかったということです。すなわち、「判子を押す」という「人がある書類に記載されていることを正しいという意思の証明」の信憑性がそもそも怪しかったことになりますし、怪しいことを知りつつ「証明」として通用させてきたという慣習で社会がきちんと回ってきたということ(たまに事件が起こりますが)に、ある意味すごさを感じます。
では、「人がある書類に記載されていることを正しいという意思の証明」をどのように行えば良いのでしょうか?すべて実印を使うことにするのも一つでしょう。しかし、すべてのケースで実印を持ち出し、毎回印鑑証明を取るのは現実的ではありません。最近、保険や携帯電話の契約などで、Pad系端末の画面上で署名(自署サイン)させるものも増えています。『署名』=『記名+押印』ですから、署名は少なくとも認印(三文判)よりは効果が高いと言うことです。欧米では昔から基本的にはサインの文化です。いわゆる判子は一般的には存在しません(一部貴族などが、手紙の封印の蝋付けで家紋のような印(印影)を使っていたようですが)。だから、各人が特徴あるサインをします。一目見て誰が書いたかわかります。日本は恐らく自署(サイン)だけでは判別できないので、「捺印」という形が必要だったのでしょう。実は今日も2カ所でPadでのサインをしたのですが、自分でも同じサインだとはとても思えませんでした。そういえば昔、海外出張する前にサインの練習をするようにアドバイスを受けたことを思い出しました。パスポートのサインが海外では「印影」ですから、毎回異なる形でサインすると、私自身の証明すら出来なくなってしまうということです。日本ではやはり自署(サイン)は慣れていないので、広く普及させるのは難しいのでしょう。
菅政権で河野行革担当大臣が、まずは「役所の判子をヤメレ」と発信しました。デジタル庁創設で、行政を皮切りとして早期のデジタル化社会への実現を進めることが、政府の柱の位置づけにもなりました。この中で大きな要素としてクローズアップされているのがマイナンバーカードです。世間一般的にはあまり人気がありません。その背景につながることですが、マイナンバーカードがその名前の通り「すべての個人情報などを引き出せる(紐付けできる)ナンバー」という一面がクローズアップされているので、プライバシー情報漏洩などの不安感が先行しています。しかしマイナンバーカードには、サイバー空間上での認証の役割があります。本人確認および「人がある(IT上の)書類に記載されていることを正しいという意思の証明(書類の信憑性証明」」の手段として使えます。今回話題となった給付金などのさまざまな申請やe-Taxでの本人証明などで有効に使えるはずなのですが、判子のように手軽に広く普及させるには不安払拭なども含めた課題も多いのが現状です。今回のコロナ禍で、様々な申請や給付に時間がかかる大きな要因のひとつに、電子行政そのものの遅れもありますが、それ以上に電子行政とひとり一人の住民とのコネクションが確立されていないからではないかと思えます。その現れがIT時代にどのようにして「人がある書類に記載されていることを正しいという意思の証明」すら困難であるということになります。マイナンバーカードが有効な手立てとなり得るはずですが、多くの人の安心感なくしては普及は難しいでしょう。判子の危うさを受け入れられる我々が、マイナンバーの危うさを受け入れられるようになるためには何が足りないのか・・・
コロナ禍は、社会の根底にある潜在的課題を炙り出す"不幸中の幸い"的機会となれば、少しは救われる気持ちになります。ITシステムの開発に増して、物理的な観点だけでなく、心理的観点、社会行動的観点など、さまざまな要素を立体的視点で考える制度設計・運用設計が重要な時代であることを改めて思う今日この頃です。
ちなみに、10/1は「印章の日」なんだそうです。
技術士(電気・電子部門)
永倉正洋 技術士事務所 代表
一般社団法人 人材育成と教育サービス協議会(JAMOTE)理事
Mail:masahiro.nagakura@naga-pe.com
1980年 日立製作所入社。
システム事業部(当時)で電力情報、通信監視、鉄道、地域活性化などのシステムエンジニアリングに取り組む。
2003年 情報・通信グループ アウトソーシング事業部情報ユーティリティセンタ(当時)センタ長として、情報ユーティリティ型ビジネスモデル立案などを推進。
2004年 uVALUE推進室(当時)室長として、情報・通信グループ事業コンセプトuVALUEを推進。
2006年 uVALUE・コミュニケーション本部(当時)本部長としてuVALUEの推進と広報/宣伝などを軸とした統合コミュニケーション戦略の立案と推進に従事。
2009年 日立インフォメーションアカデミー(当時)に移り、主幹兼研究開発センタ長としてIT人財育成に関する業務に従事。
2010年 企画本部長兼研究開発センタ長として、人財育成事業運営の企画に従事。
2011年 主幹コーディネータとしてIT人財に求められる意識・スキル・コンピテンシーの変化を踏まえた「人財育成のための立体的施策」立案と、 組織・事業ビジョンの浸透、意識や意欲の醸成などの講演・研修の開発・実施に従事。
2020年 日立アカデミーを退社。
永倉正洋技術士事務所を設立し、情報通信技術に関する支援・伝承などに取り組む。日立アカデミーの研修講師などを通じて、特に意識醸成、意識改革、行動変容などの人財育成に関する立体的施策の立案と実践に力点を置いて推進中。
お問い合わせ